2018/03/08 21:49

 
バウハウスの思想
Ideen von BAUHAUS

すべての造形的作業の最終目標は建築である!
……建築家、彫刻家、画家、我々はみな、 
手工業に立ち返らなければならない! 
……芸術家は職人の延長上にある 
( バウハウス・マニフェストより)

ヴァイマール時代
バウハウスの生徒たち
(1922年頃)
©Bauahaus Archiv Berlin

バウハウスの元々の構想は、20世紀初頭の工 業化と製品の大量生産化の発展により工業の一部へと組み込まれてしまった芸術を開放し、人間らしさや手作りの温かみ溢れる手工業芸術を復活させて、それを近代の生産プロセスに適合させるということであった。これにより、それまで伝統的に分類されていた造形、工芸、表現芸術が融合され、合理主義や機能主義などの新たな芸術概念が誕生。

これらの概念が絵画や版画、写真などあらゆる芸術分野へと浸透していった。

またバウハウスは、様々な芸術を結び付ける総体とし ての建築を目指し、この理想を各地の工業施設の建設や集合住宅のような住空間の創設において実現していった。

バウハウスの歴史
Geschichte von BAUHAUS

・ヴァイマール時代(1919~25年)

ハウス・アム・ホルン
ハウス・アム・ホルン
Haus am Horn, Foto: Maik Schuck,
©weimar GmbH

ドイツ中部の街ヴァイマールでのバウハウス学校新設に伴い招かれたのは、画家ライオネル・ファイニンガーやヨハネス・イッテン、ヴァシリー・カンディンスキーらそうそうたるメンバー。授業は講義中心の予備課程と、マイスターと呼ばれる芸術家や職人が運営する工房での作業課程から成っていた。

当初の作品にはまだ表現主義の要素が強かったが、次第に目的合理性を重視した教育方針へと転換した。

1923年の作品「ハウス・アム・ホルン(Haus am Horn)」は外装、インテリアともに合理主義に基づいて建てられたものだが、周辺住民からは「機械的で冷たい」などと言われ、評判はあまり芳しくなかった。

これ以降、バウハウスは共産主義的な思想を持っているとの噂が広まり、2年後に街を追われたのである。

・デッサウ時代(1925~32年)

デッサウ・バウハウス校
デッサウ・バウハウス校のガラス張りの
校舎 Foto: Kirsten Baumann 2005, 
©Stiftung Bauhaus Dessau

1925年にヴァイマールの北東約170kmに位置するデッサウへの移転後、地元の航空機製造士フーゴ・ユンカースの保護を受け、さらには安定したリベラル層の基盤に支えられて、バウハウスは全盛期を迎える。

教師マルセル・ブロイヤー、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエらが新素材スチールを使用した家具を開発。

この画期的な発明を機に、工業との連携を強化し始めた。

 

26年にはグロピウスが考案したバウハウスの新校舎が完成。

ガラス張りの建物は特に人目を引く構造で斬新であると評価された。

 

28年にグロピウスは退官、後任のスイス人建築家ハネス・マイヤーは、バウハウスが生み出す製品を庶民のニーズに合わせることに尽力した人物として知られる。

・閉鎖とその後の影響(1932年~)

デッサウ・バウハウス校の一室
デッサウ・バウハウス校の一室
Foto: Jutta Stein 2005, 
©Stiftung Bauhaus Dessau

1930年からミース・ファン・デル・ローエがデッサウで校長を務め、バウハウスの表現様式はさらに拡大を続けて、工業デザイン、グラフィックデザインといった新しい分野の芸術を生み出すに至った。

しかし、32年にナチスがデッサウの地方自治選挙で勝利すると居を追われてベルリンへ移転、そこで最終的に閉鎖を命じられるという運命を辿った。

閉校後、教師の1人モホリ=ナジ・ラースローはシカゴに「ニュー・バウハウス」を設立、グロピウスはハーバード大学大学院・デザイン科の教授に就任するなど、教師陣や生徒の多くは米国へ移住し、ドイツ発祥のバウハウスを海外に広めることに貢献した。